DNAのある所


北海道での独り言
by tedtoyama
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自己紹介
男 
1996年から11年在住した米国シリコンバレーを後にして、2006年9月から北海道に移住。
パートナー2人と共に新しい生活を始める。
生まれて初めての北海道。
期待いっぱいで突進だ。
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カリフォルニアで煙草吸ってます

高校時代から今まで煙草を吸い続けている。別にやめようと思ったことも無い。さすがに日本時代に比べると本数は半減して一日一箱20本である。日本ではショートホープだったので実に四箱以上吸ってたわけだ。今はマルボロ・レギュラーですね。これも結構強い。
23年前初めて渡米した頃のワシントン州では日本と変わらぬ喫煙生活を送っていたが、9年前に再渡米した際のカリフォルニア州は、不穏な州の法案がどんどん実施され始めている最中だった。公共の建物内から始まり、飲食店内、バーやカジノなど室内での喫煙は禁止されていった。食事中にちょっと失礼、一杯やりながらちょっと失礼と、外に出て吸うわけですね。店の軒先で一服してると見知らぬアメリカ人客も隣で吸い始めて「せち辛い世の中になったのぉー」などと言い出すわけです。そこで会話が始まり自己紹介しあったりしちゃって、名刺交換してみるとインテルやアップルやLSIロジックの人たちだったりして、結構知り合いも増えていいこともありましたね。
しかしその後ますます締め付けは厳しくなってきている。建物の外であっても入り口から何フィート離れていなければだめだとかなってきて、その距離がどんどん大きくなっている。
先日も近くの公認カジノ内のレストランで食事中に外に出て煙草を吸っていたら、警備員がすっ飛んできて、だめだめここで吸っちゃあ!言われた。何でぇー?どこで吸えばいいの?
と聞きながら一服を続けていると、裏!裏!そこで吸えるから、とのこと。へー、だってここに灰皿あるじゃんと吸いながら問うと、ここは禁煙で、エリア内に入ったら即座に消してもらうよう灰皿置いてんだよー!
ああーそーかい分かったよと言って、吸い終わった煙草を即座に消してやった。
LAのサンタモニカに続いてサンタクルーズの海岸も禁煙になっちまった。
サンノゼ空港内の喫煙ブースもだいぶ前に無くなっちゃったし、ラスベガスですら空港内は禁煙になった。どっかの国では町ごと禁煙にしたって言うし(その町で煙草売ってたらマンガですね)。
でも吸うもんね。売ってる限り買うもんね。でも一箱10ドル越えたら止めようかな。
医療用の大麻は有機栽培にしよう!なんて言ってるくせにぃー。煙草吸って健康なんだよ、俺は!
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by tedtoyama | 2005-03-31 02:25 | 日記

便器の反乱(イースターの日曜日の出来事)

昨年末以来掃除せず(汚くてすみません)、かまってやらなかった我が家の便器が突然反乱した。
昨夜ビールと水割りをしこたま飲んだ挙句、寝る前にいつものように水を一気飲みしたおかげで夜中におしっこに起きた。起きたといっても体が起き上がって、よたよたトイレに勝手に向かっているだけで、意識はほとんど無く頭は睡眠を継続していた。今にも閉じてしまいそうな薄半開きのとろんとしたワニ目状態で放尿した。スリープモードのループ中に放尿という割り込み処理が起動した、とまあ元プログラマーは解析するわけですね。(このときは何にも考えてなかったけど)
割り込み処理起動(理由:放尿)①ベッドから起きてトイレに向かう ②放尿 ③水を流す
④ベッドに戻って寝る これら4つのステップの③で異変が起きた。水が流れない。どんどん便器に溜まっていく。この緊急事態でスリープモードは解除された。意識が戻るにつれて「あっ!あっ!水止まって、ダメダメこれ以上増えちゃ、うわぁー!」と、あたふた嘆願無声心中絶叫状態になっていった。
驚いたろ、ドキドキしたろ、ちゃんと掃除しろよなケッ!と言ったような感じで水は止まった。便器いっぱいに、表面張力一歩手前でたっぽんたっぽん状態の水に薄まったおしっこが溜まっていた。
とりあえず最悪の事態は避けられたな。まあ明日何とかすることにして寝よ、と思った瞬間足に水を感じた。うっ冷て、えっ?何で?目を皿のようにして便器を見つめまわした。
そういえば日ごろこんな風に注目してあげなかったなあ、すまなかった、明日ちゃんと手入れするからね、と言いなだめるようにチェックした。貯水タンクの蓋の端っこからぽたぽたしていた。蓋を取ってみると、浮き玉状の調節弁を支えている放水柱のてっぺんから水が細く噴出していた。すぐに止まったがこれは交換の必要がある。それにしても便器と貯水タンクの2つが夜中同時に反乱を起こすとは!よほど怒り心頭に達していたのだなあ。これで便座あたりが同時にパコッと割れでもしたらオカルト映画だのぅ、と思いつつ足を洗いながら便所掃除怠慢生活からも足を洗わねばと決心して寝た。
翌朝チェックしたら水位は多少減ったものの、相変わらずおしっこ混じりの水がナミナミとあり床もぬれていた。夢ではなかった。
今日はイースターの日曜日でアパートのオフィスは閉まっていた。明日までは待てないので自分で反乱軍を鎮圧する武器を買いにホームデポに行った。貯水タンク用の支柱と簡易詰まり解消グッズである吸盤、それと万が一のためにエイリアン用の内視鏡検査器みたいな、パイプ詰まりほじくりワイアーを買った。全部で17ドルだった。
やはり吸盤では反乱軍に歯が立たずワイアー攻撃で結果を見た。貯水タンクを空にして支柱を新品に取り替えた後きっちりと掃除した。
午前中一杯使って反乱軍と一旦和解した。水漏れも無く見違えるようになったトイレは、勢いよく水を流し飲み込んでいった。ハッピー・イースター!
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by tedtoyama | 2005-03-28 12:46 | 日記

セミ取り少年

アパートの部屋はオートロックになっている。電子キーで2つ所有し使っているのだが、今朝それを部屋に忘れたままロックドアウトしてしまった。シャワーを浴びコーヒーを飲んだにもかかわらず、頭は霧がかかった状態でイニシャルリセットされておらずリブートを繰り返しているような感じだった。駐車場まで歩いているときキーが無いことに気付いた。「あれま!」あーめんどくさい、と思いつつ新しいキーをいただきにアパートのオフィスまで行った。「ロックドアウトしてしまったので新しいキーをくださぁーい」「はぁーい」と、双方朝のすがすがしさを含んだ間延び声で接した。一個新しいキーを持ってきたのでもう一つ下さいな、と頼んだら、今までのを返しに来たときに差し上げましょう、とのこと。早速古いキーを返しに来たらさっきとは違った人が対応した。これ古いキー2つね、さっき新しいキーを一つ作ってもらったのだけど2つ欲しいのでもう一つ作ってね。とお願いしつつ新しいのと古い二つを分けて渡した。
はいはい、全部で三つね。
いえいえ、二つ欲しいので後一つです。
ん?一つだったらこれでいいですね。
いやいや、この新しいのに加えてもう一つ欲しいのです。合計で2つ欲しいわけです。
(おめぇー、遊んでるんじゃねーよ!早く一個コピー取って来い。バーロ!)
(二つまではフリーだけど三つ目からは5ドルだったか10ドルだったか、費用かかるじゃんか。)
はい、わかりましたね。とキーを三つともザクっと持って行った。
(あらあら!どれが新しいのか古いのか分からなくなっちゃったねぇ。多分)
さあ出来ましたよ!全部で三つ、どうぞ!
と料金を請求するわけでもなく私の前に差し出された三つの新しい(だろう)キー。
しばしキーを眺めましたね。もうどうでもいいや、と思いそれを受け取って一旦部屋に向かった。三つとも有効なキーだった。
話が通じねーなぁ、と朝っぱらから一日分の精神的疲労を引きずって再度駐車場に向かいながらふと、二十数年前の学生時代のある夏の日を思い出していた。
大学の同級生が私の地元静岡の教員採用試験を受けるため実家に宿泊していた。学校関係は夏休みの頃だった。まだ試験が数日後のある日、実家の近くにあるテニスコートで夕方テニスをしようということになった。5時過ぎとはいえ日差しは高く蒸し熱い日だった。実家の周りは当時、テニスコートを除けば小さな雑木林が点在していて自然の多い場所であった。
麦わら帽子をかぶり虫かごをたすきに肩にかけた少年が一人、雑木林に立ち向かっていた。
ふと、みんな夏休みなのに彼一人か?と自分の少年期を思い出した。もうセミを取ったりして外で遊ぶことは無くなったのかなぁ?とちょっと悲しくなりつつもその少年の背を見つめた。セミは、ここまで皆で鳴けば何処にいるかわかんねーだろ、と言わんばかりに、規則的な泣き声をサラウンドで放っていた。
テニスを始めてふと気が付いた。さっきの少年がコートの端に居る。最初はたたずんでいたのだがそのうちにボールを拾い始めた。私たちに戻してくれるわけですね。「おおー!ありがとう」としばらくまたパッコンパッコンやっていた。
いやー!いい汗かいたなぁーと、もうちょっと続けようか止めようか迷いつつ汗を拭いていたら少年が目の前まで来てボールを手渡してくれた。
「さっきからありがとう。君は一人でさっきセミを取っていたねぇ?」
「うん、そうだよ!」
「セミは取れたかい?」
「うん、取れたよ」
「そうか、さっきからボール拾いしてくれてありがとう、でももう7時になるから帰った方がいいんじゃないか?お兄さん(当時はお兄さんでした)達ももうちょっとしたら帰るから」
「うん!僕のうちは近くなんだ!お母さんが晩御飯作ってくれるから6時半までに帰るんだ!」
「???おっ!もう7時近くだ。早く帰りなさい。お母さんが心配しているから」
「うん!大丈夫だよ!僕は6時半までに帰ればいいんだ!お母さんと一緒にご飯食べるから!」
「そうか、わかった。でももう6時半は過ぎているんだよ。7時近いんだよ。帰りなさいね」
「うん!おじさんたちもう止めるの?」
「もうちょっとテニスして帰るよ」
「そうなの!じゃボール拾うね!」
「いやいや、ボール拾いはもういいよ、お母さんが待ってるから帰りなさいね」
「うん!大丈夫だよ!僕6時半までに帰ればいいんだ」
「???・・・」
きれいな瞳の、純白な心を持った一途な少年が目の前にいた。でも話は通じなかった。
続きのテニスはあきらめて帰宅した。途中少年の背中を追ったが寂しそうに雑木林に消えていった。
以来、私の周りにはいまだに「セミ取り少年」が突然現れる。
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by tedtoyama | 2005-03-26 16:06 | 日記

そこまで食うか!

米国に定住して9年目を迎えようとしている。初めて訪れたのはもう23年も前のことだ。当時は一年半ほど滞在して帰国し堅気の仕事に就いた。その後仕事の関係で再渡米し転職、現在に至っている。最初の渡米時から今までを振り返るとアメリカ人の「でぶ」がずいぶん少なくなったなあ、と感ずる。まあ西海岸での印象であり、中南部にはまだまだ「でぶ」の巣窟のような町が多く存在するが、確かに全米規模でいわゆる肥満が減っていることは確かだろう。
ちなみに肥満、でぶ、といった表現は、実はアメリカ人のそれを説明するのにはちょっとニュアンスが違うと思っている。大きい人、巨大な肉食獣、重心がちょっと前にあるつま先型の肉塊、砂糖と炭酸飲料と肉を混ぜてソーセージの皮に詰めてできたアンパンマン。
つまり、多くの相撲取りに見られる「ボヨヨーン」「三重顎、垂れチチ、ヒィヒィ、ハァハァ、ゼィゼィ」「ブヨンブヨン、どてっ」型ではなく、「ヒップアップ、ぱっつんぱっつん、ふんふん」型が多いと思う。ちょっとよく分かりませんかね?
ケツは牛か馬またはそれ以上の大きさがあるのだが、全体のバランスから見て足の長さがそこそこあるし、ヒップアップしていて上半身が弓なりに前に突き出ている、って感じですか。
まあ、単なる肉塊と化して動くのも難儀または歩けないので車椅子、といった人たちもたくさんいますけど。
いずれにしても大きい人、は減ったような印象を受ける、が相変わらず不規則に皆よく食う。
昨年はローカーボ(炭水化物:パンなど)の摂取を控えるダイエットが一時的にはやっていたが、日本で言うところの副食、こちらの主食である肉や魚、野菜などはどしどし食べましょうね!パンなどはやめましょうね!という作戦だ。
となるとバフェ形式のレストランに行き70歳代の老夫婦がロースとビーフを10皿以上も御代わりするわけですね。パン無しで、ひたすら肉、肉、肉、肉、いも、肉、肉、野菜、肉、と食べるわけです。そうやってお店の人からもう止めてくださいと言われ、食べ放題だろとクレームをつけるわけです。バカですね。その時点でローカーボ・ダイエットの主題は消えているわけです。
昨夜久しぶりに日本食レストランの寿司バーで知人と夕食を共にした。一杯やりながら慎ましやかに酒の魚をつまみ、日本そばを食べてお開きとしたが、その間、隣で食事を堪能してたのは白人2人の大きい人たちだった。日本食は大好き!健康的だし味がある。こんなおいしいものを食べて体にいいのだからすばらしい。週に三日は日本食だ。と言っていた。
席についてまずドリンクはコーラ。(コーラ中毒なんでしょうか?幼年期からの習慣でしょうか?寿司を含む日本食にコーラはどうもねぇ!)
続いて、ドラゴンロール(海老天を裏巻きし、うなぎとアボカドをのっけて巻いた寿司)とスパイダーロール(ソフトシェルクラブのから揚げを裏巻きした寿司、サニーレタス、マヨネーズ、トビコなどのアレンジ有り)、それとトロ握ってね!と来た。熱燗も注文した。コーラと熱燗?シビレル組み合わせだ。味噌汁も飲んでた。???
裏巻きの場合通常の巻物より1.5倍くらいご飯が多いので結構な量になるが、それはアペタイザーであった。トロが気に入ったらしく、3オーダー(6貫:6ピース:6個)を追加した後(ここまでで、2人で寿司20個以上のシャリを消費している)、さあメイン・ディッシュを頼もう、となり、それぞれ天ぷら&とんかつ定食とさば塩&から揚げ定食を注文して、出てきた定食のごはんに醤油をタップリかけてたいらげていた。
仕上げはオレンジと抹茶アイスクリーム、見なきゃよかったんだけど見てて吐きそうになった。
こいつら長生きしねーな、絶対痩せねーな、満腹中枢調節して食う量減らせ!ばーか。と思った。
今日の昼食は、友人3人と一緒にビジネス・ミーティングに熱中していたので久しぶりにハンバーガーで済ますことにした。2つ食べるやつもいたので4人で7個のバーガーとフレンチフライ4つを私一人で買出しに行った。「お持ち帰りですか?それともこちらでお召し上がりですか?」と、相変わらず聞いてきた。思わず周りを見渡しましたね。仲間のように見られる客は誰もいない。バーガー7個とポテト4つなんだけど、俺一人がここで食うと思う?
本当に?でもこの国では有り得るな、コンビニ接客マニュアルだけの理由というわけでもないんだな、と思いなおした。
注文した食料を両手で抱えて店を出るとき、テーブルで食事する2人の大きな人に目が止まった。
2人でバーガー11個を並べ(しっかり数えた、食べ終わっていたバーガーがあったのかも知れない)、ポテトフライ、チキンナゲット各4つにかぶりつきコーラ大を飲んでいた。
アメリカだけで年間400億個以上の消費があるわけだ、と再度感心した。
独立記念日のホットドック早食い競争で、痩せてちいさな日本人が優勝するのが何となく悲しく思えた昨日今日でした。
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by tedtoyama | 2005-03-25 16:15 | 日記

久方のオフ

どのくらいぶりでしょうか?丸まる三日間完全にオフタイムを過ごしました。正確には金曜日の午後7時から翌火曜日の午前9時半までなのでもう少し長いのですが。
先週の金曜日の夜、シアトルから友人一家が遊びに来た。友人夫婦と娘、犬の3人+1匹所帯なので多少の無理は覚悟の上、車でI-5を南下してきた。朝9時にシアトルを出発すると言っていたので、到着は14時間後の午後11時頃だろうと想定していた。約1300kmの旅なのでアクシデントが無い限りまあ大体そんなところだ。
思えば始めてアメリカに来たときから今まで、俺もよく往復したなあ!シアトルとサンフランシスコ・ベイエリアを。一人でもう何回車を運転して往復したか数えてみた。23年間、すでに両手では足りないくらい往復していた。飛行機も入れたらその倍以上になる。
縁があったのですね、ワシントン州とカリフォルニア州に。
おぉ!もうそんなになるかぁ、と驚いていたら電話があった。午後4時過ぎだった。
「今オレゴン州、車故障のため前進不可、対処した上再度連絡」と、電報のような簡潔連絡だった。
友人夫婦の旦那の方はファイアーファイターの救急隊員で、車のメカに強い典型的なアメリカ人なので、さして心配もせず、「はいよ」とかいって電話を置いた。しかしすぐに時間から場所を推測(聞き忘れた)してみたら何とオレゴン州の山の中、であるはずだ。それも半端じゃないような所ですよ。トリプルAこないだろうな、必要な設備(ガススタンド、ディーラー、モーテル、雑貨屋、レンタカーなどなど)はあるかな、とサバイバルモードで心配にになったが、いつも鉄砲とサバイバルキット持ってるし、お金もあるから大丈夫か、と思い直した。
何とか前進してくるようだったら到着は夜半になるので、何か夜食でも用意しとくかなあと
思っていたら再度電話があった。
「車は重症である。が、幸運にも10分ほどの場所に町がありディーラーに持ち込んだ。診断結果は月曜日に出るので、とりあえず車を預けレンタカーで移動中である。全員無事。現在はカリフォルニア州に入って30分経過、午後8時30分。以上」
思わず、ラジャー!と言ってしまいそうな状況と電話の文句である。相変わらずだなぁと感心しつつも、あと五時間ほどで到着だなと久々の来訪に心を躍らせた。
そんなこんなで、午前1時過ぎに無事到着しその後の週末+αを一緒に過ごしているわけです。
とりあえずバケーションだから、と言う訳で車のことはともかく楽しんでいます。
この後どうなるのか興味で聞いてみたら、オレゴン州の山の中で借りたレンタカーでそのままシアトルまで帰り、家族を家に戻してからトウイングできるレンタカーをシアトルで借りて再度オレゴン山中に戻り、自分の車を引きずって帰るそうです。
さて、私の友人は一週間でいったい何キロ運転するのでしょうか?
ともかく3日間オフの私のほうが1週間のバケーションの友人よりのんびり出来たことは確かですね。
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by tedtoyama | 2005-03-22 17:26 | 日記

インド人の散歩

昨年から今年にかけて、シリコンバレーの朝晩に渋滞が戻ってきた。
またバブル?
いやいや。
それじゃなんで?
理由は2つ。一つは3~4年毎に繰り返される景気の波の高い方が昨年訪れたこと。(ちなみに今年から来年にかけては小波の低い方、2007年から8年にかけてちょっと高波のようですな)
もう一つの理由は、はっきり言ってインド人です。(ちょっと分かりにくいでしょ)
8年前から5年前までのバブル期には、人手不足でこの辺の就業状況が大きく変わりました。
台湾を中心とした中国とゼロの国インドからたくさんたくさんエンジニアがやって来ました。
その彼らの多くは、一昨年までの3年間発給枠が大幅に増えたH1Bビザを取得して働いていた。
そのH1Bビザの発給枠増大の恩恵に預かったのは誰だったか?
インドの人たちであった。
突然のように増え、いっぱいになったなあ。彼らが生活するために、もともとはなかったインフラもどしどしそろっていったし。
インド飯屋が増えた後、ご近所にインドの人がスパイスの香りとともに増殖していった。
アパートの管理人、スタンドのオーナー、グローサリーのキャッシャーなど瞬く間にインドの人たちで占められていった。でも道路工事や皿洗い、新聞配達やその他のサービス接客業などには今も彼らは働いていないね。
スパニッシュの人たちは風を切って自転車です。もともと自分たちの住処だったことを
感じていることはなさそうだ。本能がカリフォルニアに住まわせているのかな?
イヌイットはブッシュ政策のおかげで土地を幻のごとく扱われた挙句、小銭とともに南下してきて身を滅ぼしている。
そうした近隣諸国、諸州とは明らかに異なる人たちインド人。
バブルのころ渋滞の原因は単に住民の急激な増加とされていた。エンジニアが増え企業家も増え成功者も増え車も増えました。
インドとは何の関係も無いかに見えた。
しかし、そこには恐るべき真実があったとさ。
一般的な渋滞の理由はいくつか考えられますね。車が増えた。工事中。事故。
シリコンバレーにはもう一つ名物?になりつつある渋滞の大きな原因があるのです。それは、
「インド人の散歩」
他州の詳細はよく分かりませんが、一般的にアメリカの道路の信号機は、ある時間帯で混雑する方向の優先を高め、その他の時間帯では感応式システムになっています。例えば、東西に走る片側4車線の主幹道路に対して南北に横切る片側交互通行の道があったとしますね。
普段は主幹道路がお前らもう少し待っとけ、とかいって信号の青を80%くらい独り占めしてえばっているわけです。ところが朝晩のラッシュ時に南北の利用が高まる地域では、普段小さくなっている片側交互通行さんにも50%の青をあげちゃうんです。
感応式システムの場合は、「あっ、赤になっちまった」と残念がって交差点の先頭で止まっても、左右の車が途切れていたら瞬く間に目の前の信号が青に切り替わってくれますな。結構なことです。どっからもなぁーんにも来ないのに、目の前の信号が赤のまま、ということは無いわけです。
こんないい仕組みを、朝に夕に崩壊させるじいさん、ばあさん達。わしら健康に気ぃ使っとるもんね。朝食後と夕食前には散歩ね。国にいたときも同じね。常にうろうろしたいね。本能ね、多分これ。
通常は赤のままの歩行者用信号は、一旦ボタンが押され次のタイミングで青になったりすると、その方向の車用信号までモロ影響を受ける(当たり前ですが)。かくして感応システムも
朝晩の片側交互通行さんへの青色分け前比率もその瞬間パァーになってしまう。
こうして、今日もシリコンバレーは渋滞していくのです。
車が何万台も増えなくてもいいわけですね。一人二人が毎日散歩すりゃぁいいのです。(本当は景気回復してないんじゃないのぉー?たのむから道路横切る散歩やめてくれ!)
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by tedtoyama | 2005-03-17 13:59 | 日記

えーっと、その二

結局、当然ながらNYには飛行機で行けなかった訳です。
あちこちの空港は閉鎖になってるわ、マンハッタン島は孤立状態だわ、でした。あせりながらも
カリフォルニアからバックアップすることになりました。フリーのジャーナリスト(今は私もそうですが)やいくつかの米国内外のメディアの人たちは、さすがに行動力があり決断も早く、レンタカーなどで早々東に旅立っていました。
その後約一ヶ月はなかなか忙しかったですな。
米国にとって「まさか!」の出来事であり、米国人がその「まさか!」に対応する様子がよく見えて勉強になりました。
ごく一部のいろいろな力を持った人たちが、それらを背景に立ち向かおうとするのだけれども
一般の米国人が今をアクセプトすることとの乖離がけっこうあったね。

テロから約一ヵ月半経った2001年10月末に、テロの影響その後の米国、とIT会社取材を兼ねてLAに出かけることになった。
サンノゼからLAまでは車でも6時間弱ではあるが通常は飛行機ですね。しかし今はまだテロの影響(空港が100%機能していない、駐車場や入り口の規制がある。搭乗チェックに時間がかかる。
何が起こるかわからない不安が消え去っていない)などの理由からレンタカーを選択した。朝7時にレンタカーオフィスにチェックアウトしに行ったら、「あー!あなたの免許の関係?でレンタできません」と言われた。(免許の関係って何だよ?DUIあったけどもう償い終わって免許も戻ったよ!何かまだ文句あっか?)と思いつつ言葉ではやんわりとお聞き申し上げた。
DUI経験者は、免許を再発行してもらってから一年間レンタカーの利用はできませんです。
とのこと。
いやはや、重ね重ね大変なことをしたわけね、とため息をつきながら納得した。
そんじゃ自分の車で行くかぁ、と、LAに向かった。
LAでは仕事を速やかに済ませ、サンフランシスコ・ベイエリアにはないブックオフでコミックや文庫本を買い込んだ。日本食も安いしラーメン屋もいっぱいあるし、飲み屋は面白いし、といつもながらの満足感でいっぱいになりサンタクルーズに帰ってきた。
その夜奇妙な電話が一本かかってきた。
「LA行きましたね?本買いましたね?テロの本」
(???)
「はい、LA行きました。仕事で。本も買いました。プライベートで。でも文庫本は日本のエッセイ(椎名誠)だしあとはコミックで、テロというのはちょっとぉ?」
「そのコミックですがテロをテーマにしてますね?」
「ええー?浦沢直樹 画、工藤かずや 作のパイナップルアーミーが?ですかぁ?」
(でも確かにそういわれればそうだよなあ)
「ちょと、あなたはどなた?」
「FBI、サンフランシスコ支局の☓☓☓です。お手数掛けます」
(うそぉー!なんでFBIかよー、アンド、なんでLAの古本屋でコミック買ったの知ってるわけ?)
「で、買いましたね!!!」
「はい」
「分かりました。それではおやすみなさい。ありがとう」
(???)
何だったんでしょうか?FBIだし。追跡されてるみたいだし。確かにクレジットカードで買ったから履歴はオンラインで残っていると思うけど、このテロで大事なときに何でDUIの俺なんだぁー!とくらくらしてきました。

翌日外出して部屋に戻るとドアの前に花束が立てかけてある。思い当たる節は何もない。
そーっと、そーっと足で隣の部屋の前まで移動させて部屋に入った。いったい何なんだ?

結局この件はその後何も後を引かず(と思う)うやむやになっていった。

しばらく気になってしょうがなかった。
多分、何でも有りの変な国なんだろうなぁとつくづく再確認した出来事だった。
(で終わってくれるよなあ!)
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by tedtoyama | 2005-03-16 17:24 | 日記

実録DUIの後記とセプテンバー11の思い出 その一

やっぱり、刺激的な実録シリーズは自然と興味を引くものなんですね!
この、「自然と」というのが少し気にはなりますな。何故なら、ブログを始めましたとアナウンスしたのが一ヶ月前で、しかも知人3人にそっと営業しただけなのにもかかわらず、このDUIシリーズにはDDP一クラス以上の見知らぬ皆さんが訪れてくれました。これは自然か?またはこれが自然か?と思いましたね。
びっくらこきました。反面そうか、そうかぁっと尻上がりにもなりました。
asamiさんまた見てね!
今後も実体験に基く一般的で奇妙な話をお届けしていきましょね。シリコンバレーのIT関連情報と共にですが。
DUIシリーズを書き終わって、ふぅーむ、などとちょっぴり興奮、全部しゃべっちまっただよ的すっきり感または恥じらい、などを余感していたら後日談があったのを思い出したので追記しときます。
供述書にも書きましたが、DDP14週間の間、2度ほど出張したんです。LAとシアトルに。
まさに条件付免許環境、DUIまっさかり、現在DDPで償い中、であった当時の出張でした。
仕事なので時間に制限があり、いずれも飛行機、レンタカーを利用し、つつがなく業務を遂行しました。
しかしその後正規の免許を手にしたというのにレンタカーを拒否されることになろうとは。。。

その年の9月11日、大きな事件が起きたことは皆さんご存知でしょう。NYで貿易センタービルが崩れ去りました。(個人的な話ですが、まだ正規免許発行前ですね!)
前日サンタクルーズ沖で釣りをし、その収穫で刺身だの焼き魚だのの宴会を経て暴睡してたら日本からの緊急電話あり。TVを見よ!CNN!NY大変!取材せよ!カリフォルニアの午前6時頃だったでしょうか?
うぇー、なんだ?まだ酒残ってるなあ!とりあえずTVのスイッチを、をっぷ!(ゲー、ほんとに吐いた)おっ?煙が!ここはどこだっけ?ああNY貿易センタービルね?え?煙出てる。なんじゃこりゃ?と思った瞬間(ほんとにTVをつけ見入った瞬間だった)ビルが崩れていった。CNNのTV画面にかじりつきながら、映画だ、という感覚(頭も起きてなかったし、完全に作り物を見ているようだった)から抜け出せずにいた。
水飲み、コーヒー飲みしながらあたふたしていると、残ったビルに何かがひかり、一部が爆裂した。うそー!、、、このあたりで頭が起きてきた。
シャワー浴びたいんだけどそんな暇なさそうだ。ともかくNYへ行けぇー!とこうなった。当然航空チケット関係にアクセスしてみる。情報は混沌としてきており相手の担当者ですら泣きそうな
受け答えであった。
けっ!何だコリャ、朝っぱらから大騒ぎなんだよ!こっちは、などとぼやきながらもアクセスを続けた。そうしながら徐々に事の重大さに遅ればせながら気付いていった。アメリカという巨大な国家、世界の中心にもなろうかとの勢いや気持ち、思惑でいっぱいの、この鼻っ柱の強くて
物と金の溢れる(どんな場合も溢れていなくてはだめのようですね)、そしてそれらの上に成り立つ豊かさ、を信じて止まない国が今、しまった!やられた!と、思うのではなく実際に体験しちまったわけです。
心痛む事件でした。
しかし私自身にとって未だに「・・・という重大な出来事だった。その後の世界情勢は?アメリカの姿勢は今後如何に?」といった国家、および世界情勢に収まるような大局的な事件ではすまなかったのは、その直後からちらついた身の回りに起きる不思議な出来事に原因があったからだ。

FBIと称する人物からの電話があったんです。本当に。(何で俺ですかね?とっても怖かった)

続く
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by tedtoyama | 2005-03-15 17:08 | 日記

DUIぢごく 完結編

2001年4月26日にDDP(Drinking Driver Program)への入学手続きを行った。
入学金$246と運転免許の再発行手続き費用$100を支払い、保険証明SR22を提出した。クラスは毎週水曜日の午後7時から9時まで、土曜日の午前9時から11時までのどちらかを選択することになり、土曜の方を選んだ。
最初のクラスは5月5日であった。以後14週間の出席を義務付けられ、仕事などの理由で欠席する場合は届出が必要で、振り替えクラスを履修する必要がある。合計で5回までの欠席(振り替えは必要)が認められており、振り替えクラスを取っていても6回目になると入学し直しになる。
20人ほどのクラスの内容は主にグループカウンセリングを中心にして、自己紹介やテーマを決めたディスカッション、ビデオ鑑賞(レポート提出義務有り)、特異な経験を持つ人(HIV感染者、重犯罪で服役中の囚人など)を招いての講演など多岐にわたっていた。毎週のクラスに連続性は無く、毎回新入生と卒業生がいるので2ヶ月以上顔を合わせていたのは5~6人だった。
いろんな人がおりました。日本人は私一人、東洋人は他にもう一人いた。後はアミーゴ2人にアミーガ1人、残りは白人。21歳以下の未成年から60を越えたおっさん、地元の漁師、学生、IT関連会社員、無職、主婦、日雇い、自営など多様であった。中国系アメリカ人の若者フレッドは、LAからサンタクルーズの彼女のところに遊びに来て逮捕されDDPのために毎週LAから通っているという。(捕まった場所で償うわけですね)
双子のかたわれマイクは、弟のエリックが当事者なんだけどほら僕たち見分けつかないでしょ?だから毎週変わりばんこに出席してるんだと笑った。(それってありかよー!)
漁師のラリーおやじはしゃがれた声で「おめえどっから来ただ。おらここで魚取ってるだ。ここのひらめうめーべ」と包帯だらけの手で握手を求めてきた。真っ黒に日焼けして皺くちゃな顔は、もう100年笑ってませんといった厳つさだったが、とっても優しい目をしていた。
緊張の初クラスを終え、まあこれなら何とかやっていけそうだな、と安堵しながら帰宅するとDMVからうれしいお知らせが届いていた。
SR22の提出とDDPへの入校手続き完了を確認したため3月26日から有効になっていた4ヶ月間の免停は取り消されました。そして制限付免許が有効になりました。制限とは、自宅と勤務先までの往復、自宅とDDPの往復に限り有効です、と書かれていた。またこの制限付免許は9月26日までの期限らしい。この間は当然ながら2004年5月8日までSR22を保つ(保険に入っている状態でいる事)ことが必要です、とも書かれていた。
まあ本気で往復を追跡されたりすることは無いだろうが、自宅と勤務先の往復の制限には思わずニヤリとしましたね。
当時はサンタクルーズからサニーベールの友人宅兼新聞社支局に通勤(週に1、2日程度だったけど)していることになっていたので、その間約35マイル、途中はサラトガ市、ロスガトス市、サンノゼ市、サンタクララ市、クパティノ市などがありシリコンバレーの半分を占めている。通勤の経路なんていくらでも不自然じゃない状態で設定できるから。
その後毎週末せっせとクラスに通い、途中取材でLAとシアトルに出張した欠席2回も振り替えクラスで乗り切り、8月8日に無事卒業証書を受け取った。
最終学歴はDDPになった。
そして10月のはじめ、9月27日付け発行の通常運転免許証を手にすることが出来た。
2月18日の逮捕から約8ヶ月、保険代、弁護士代も含めた総出費は約$7000であった。

過去9年間の米国での履歴
6年前 スピード違反 ワシントン州シアトル
4年前 DUI    カリフォルニア州サンタクルーズ
3年前 駐車禁止   カリフォルニア州LA
今年  スピード違反 カリフォルニア州サニーベール
ちょっと変わった違反切符に「魚釣って罰金」というのもあります。
これは後日「リングコッド裁判」としてお話しましょう。

それでは皆さんお気をつけて
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by tedtoyama | 2005-03-13 07:49 | 日記

DUIぢごく その四

ホワード弁護士は丁寧に説明してくれた。
一般的なアメリカの裁判では、罪状認否で有罪を認める、無罪を主張し起訴事実に対して抗弁する、有罪は認めないが起訴に対しても争わない(ノーコンテスト:いわゆる司法取引)代わりに罪を軽減してもらう、の3つがある。通常この三番目で行く訳ですね。
{はあ?、よくわからないんですけどぉ、前科一犯にならなくてすむのかぁ?ともかく、よしなに、よしなに}
で、これから何が起こって、どうなるんでしょうかねぇ?起こりうること、しなければいけないこと、手続き、費用、その他いっぱいいっぱい知りたいことがあるんです。とりあえず
勉強したけど。
まずDUI容疑(まあ容疑どころか事実なんですけど)で逮捕された場合まずその日から30日間の免停。その間に裁判所から起訴状が届き裁判沙汰になる。起訴されたのを受けてDMVが本格的?な免停4ヶ月を言い渡す。そのとき但し書きが付く。DMV側としては罪の重さやそれに対する罰金、前科が付くか否かは関係なく、DUIで逮捕された人がそれでも保険には入ってますという車の保険証明書(SR-22)、DDP(酔っ払い運転経験者のための更生学校)の入学手続き取りました証明書を提出すれば免停が解かれ、条件付免許が発行される。
裁判のほうは、一回目の罪状認否で無罪を主張する。二回目で起訴事実を認め判決に従う、といった流れだそうだ。
今ひとつ納得しないまま(だって無罪を主張しながら、まあ、あんたの言っていることも事実だから言い争う気持ちもないし、全体的にうにゃむにゃ、って感じなのでした。)相変わらずひたすら、よしなに、よしなに、状態だった。
そうか、今はすでに免停だったか。車取りに行ったし、今も弁護士事務所やら保険のブローカーやら日常生活に車使っているなあ。こりゃあ違反か。でも違反って言われてもダメだもんね。無いと生活できないもんね。と開き直って運転していた。
弁護士に依頼したおかげで出廷することもなく判決が出た。2月18日に逮捕され、2月22日に弁護士を決め依頼。2月26日に弁護士と打ち合わせ後契約締結し後はお任せ。
3月20日一回目の法廷、弁護士は無罪を主張。4月2日判決、VC(バイオレンス・コード)23152のa,bは不問、VC23103.5違反を課す、であった。未だによーくは理解していませんが、DUIについては不問、アルコールに依存した不届きな運転罪に処す、といった感じかな!(アナログじゃん、人間的じゃん)前科は無しであった。

裁判の間に免許を復活(条件付だけど)させるための準備に入った。やることは2つ。前述のSR22とDDPの入学手続きだ。まずはSR22。当時入っていた保険はセーフコだった。シアトルマリナーズのホーム球場で有名なセーフコ・フィールドのセーフコですね。ところがここは、DUIへのSR22発行を拒否していた。すぐさま解約し他の保険会社を探し契約、SR22を発効してもらった。
DDP入学手続きは裁判所の判決を待ってから、ということなので、この時点で成すことがなくなった。
判決まで10日ほど何事もなく過ぎていった。
4月26日DDP入学、入学金$246で14週間毎週2時間のクラスを受けることになった。入学金以外にお月謝$95であった。
その他、ジェイルなどにお世話になった場合の、登録?料$149.23と罰金$831を支払った。車の保険代は、年間$620から$1、780と三倍近くになった。この保険料は向こう3年間続く(昨年元に戻っただ)。SR22はこの、向こう3年間は保持されなければならず、途切れると免停になってしまう。ちなみにこの3年間は裁判所から見ると保護観察期間に当たる。無届で住所を変更したりできないなど制限が付いている。日本と同じように違反ポイントは2点、今後年間4、2年間6、3年間8、。。。などの制限にも関連してくる。

出費たるやすごいことになっていた。
学校やら法的拘束やら制限つき免許やら何やら大変だ。
保護観察3年?DUI運転履歴7年保存(今は10年)この間に再びDUIで捕まったら。。。ひゅーぅぅぅ。言いたくないしもうやんないよ。どうなるか知ってるけど。
しかぁーし、前科一犯よりしびれちゃう四文字だなあ保護観察って。

無事?諸手続きを終え、制限つき免許の発行を待ちつつもDDP学校の入学が近づいてきた。
言い忘れたがDUIの場合その償いにはボランティアがつきものなんですね。オレンジ色のベストを着て高速道路わきの掃除などが課せられるのですが私の場合免除されました。よかったよかった。

制限つき免許?DDPの様子?

続きます。
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by tedtoyama | 2005-03-12 16:56 | 日記